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つげ忠男(漫画家/原作者)
瀬々敬久監督の新作「なりゆきな魂、」が、来春1月28日より渋谷の映画館“ユーロスペース”にて公開される運びとなった。 この映画で紡がれる物語の原作は小生の漫画と瀬々監督のオリジナルストーリー部分とのコラボに依り成るものだが、全編を通しては監督の加えたその部分こそ が物語の“芯”とも“核”とものなっているのだと思える。それなりの熱い魂が窺える演出でもある。宣伝チラシなどには、原作者に自分一人の名が刷られてい て、なんだか気の退ける思いでいたのだが、こう記して少しホッと出来る。 映画は大いに当たって欲しい!そして大いに収益が得られたならば、自分はもう一つなんとしても作って頂きたい映画あるので、プロデューサーの岡田さんと監 督に連日脅迫と哀願を繰り返すつもりでいる。 近日、オサイ銭の100円玉一個を握りしめ、近くのお稲荷さんまで映画のヒット祈願に行ってみようと思う。――

 

関根史郎(映画惹句師)
大胆不敵。
こんな闇のエッジ(深淵)を見せていいのか!?

 

北井一夫(写真家)
アンバランスで暴力的だが、観終わった後は、清々しい気持ちになった。
奇妙だが、とても面白い映画だ。

 

浦崎浩實(映画批評/劇評家)

死臭ふんぷん!
芸術作品最上位の評言を献呈させてほしい。
2017年正月をはさみ、本作と「ファンタステックビーストと魔法使いの旅」が踵を接して公開されるのは暗示的だ。東西軌を一に、死臭まみれの秀作が出現。
ハリウッド製の方は娯楽映画の粉飾がたっぷりだから、気づきにくいかもしれないが、「なりゆきな魂、」は徹底しており、画面の隅から隅まで、人物は頭頂から爪先まで死臭に満ち満ちて、観る者はその世界の至福に抗えない。群像劇の一人一人の切迫感と死臭に対置される〝生〟の激しい渇望。ともすれば矛盾しそうな両者の宇宙観を本作は華麗に併存させるのである。

 

三原宏元(ビリケンギャラリー店主)

上映前の舞台挨拶で「あること」を聞いてしまった。聞いてなかったら、物語の衝撃度(ロートレアモンの言う出会いの美しさ)は、さらに増したであろう……。しかし、映画はつげ忠男の世界を描ききっていて素晴らしい。冒頭からつげ忠男の世界だ。少年と無頼漢サブの戦後風景から一気にススキが原の老人たちの現代風景へ……。そして「あること」が重なり合って、時空は混沌とし、生と死も混沌としていく。そこに虚無に満ちたダークなつげ忠男の世界が立ち上がってくる。「あること」がからみついてくるほど、つげ忠男の作品世界が際立つ構図だ。さらにラスト、柄本明と佐野史郎が遠く視線を交差するとき、ふと、つげ忠男が以前発表した「変転」のテーマが、この「あること」のテーマであったことに気がつくことになる。まさに練りに練って作られた、見るものを惑わす魅惑の映画だ。

 

小林 淳(映画評論家)

人間とはなんと愚かで、薄汚く、哀れで、それにも増してピュアなものか──。瀬々敬久はつげ忠男の脳内にうごめく人間たちの複数の不条理なドラマ、暴力的で背徳的ともいえる人々の生々しい息遣いをリアルこのうえないオリジナル劇を媒介にして私たちに鋭利に突きつける。映画が進行するにつれてつげワールドと瀬々ドラマ世界は次第に融合・合体を遂げていく。現実もまたつげ忠男が導く劇画空間に覆われ、吞み込まれていくかのようだ。現実なのか、幻想なのか。いや、そのどちらでもないのか。これもまた映画快感。映画ダイナミズム。異様な緊張感の果てにかつての日本映画がたゆたわせたノズタルジックな芳香が豊満に匂い立ってくる。

 

千葉 慶(千葉大学ほか非常勤講師・日本美術史)

わかりやすいものがもてはやされる世の中で、これほど、短く当を得た感想を書くことが困難な映画も昨今珍しい。ただ、完成することを拒絶するかのようなつげ忠男の原作の本質を理解したうえで、ここまで掘り下げていく瀬々敬久監督の手腕は圧巻だった。

特に、原作(「成り行き」「夜桜修羅」「懐かしのメロディ」)には含まれない「魂」パートと称されるシーンの挿入が非常に効果的だった。それによって、「人はなぜ生き、なぜ死ぬのか」という原作が問いかけるテーマが浮き彫りになり、さらなる色を見せている。

しかし、このような大テーマは、やはり人生のテーマというべきものであり、「答」を見出すことは容易ならないし、仮に人生の名人であるかのような仮面をかぶって「答」のようなものを見出したとしても束の間のものか、偽りのものに止まってしまう。もっとも、原作も映画も明確な「答」を提示してはいない。それは、誠実なことのように思われる。個人的には、事を成したり、金を儲けたりというのではなく、自分が今ここに存在しているだけでいいということを告げる少女の存在が「答」というのではないのだが、その代わりに「救い」となってくれた感じがした。もちろん、あれは柄本明演じる老いた男の願望が作り出した束の間の幻なのだ、そんなものは存在しないのだ、といういじわるな見方もできるようになってはいるが、個人的には、この少女は「いる」と信じてみたいし、そうしてみてもいいのではないかと思った。いるかいないかが問題ではない。その可能性を信じられるかどうかなのだ。

また、原作で印象的だった主人公の「怒り」は、映画でもやはり印象に強く残る。ただ、この「怒り」は即物的なそれをさしているのではなく、じゃれていると思えば、我を通そうとするあまりいつの間にか殺し合いにまで発展する若者たちの姿を媒介にした、「怒り(のハードルが低いこと)に対する怒り」のようなところがある。もちろん、この物語のシチュエーションはおよそ特殊なもので、わたしたちはあのような修羅場に出会うことなどめったにないが、同じような感覚は理解できるように思う。例えば、日々、何を争っているのか常にピリピリとしている人が満載の電車に乗って通勤している身としては身につまされてしまう。佐野史郎が演じたこの主人公のように、自分も怒りに対して怒っているのだけど、その実、怒る自分もまたそんなに偉くはない。自らの怒りの対象と大差ないのだ。

最後に、つげ作品のファンとしては、個人的には「京成サブ」の活躍がもっと見たい気がしてしまった。でも、それは欲目というもので、たぶん、つげ忠男としては「サブ」の活躍をハナから想定していない。というよりも、活躍できない「サブ」が存在できているこんな社会だったならば、世の中捨てたものじゃないのに、なんてことを考えているのではないか?

 

末井昭(編集者・エッセイスト)

「なりゆきな魂」というタイトルがいい。このタイトルだけで観てしまう人がいるだろう。
もちろん映画もいい。人間はみんな「なりゆきな魂」を持っているので、いつどうなるかわからない、ということを感じさせてくれる映画だ。
僕は45年前から足立正生さんのファンだが、足立さんが役者としてこの映画に出ているところも見所だ。あの足立さんが、穏やかな可愛いお爺ちゃんに見えるところが面白い。人は見かけではわからない、内面に渦巻くものは外見からはわからない、ということを教えてくれる映画でもある。

 

ダーティ工藤(映画監督・緊縛師)

石井輝男監督の会心作であった『無頼平野』から22年、ワイズ出版が再びつげ忠男の映画化に取り組んだ。インディーズの小品からメジャー大作まで縦横無尽に泳ぎ回る今一番忙しい男、瀬々敬久監督が観客の脳髄に強烈な一撃を加える。つげ忠男と瀬々敬久の独自世界がザッピングされ再構成された時、映画の新たな地平線を垣間見ることが出来るであろう。

 

斎藤岩男(美術監督)

最近受けた日活ロマンポルノのインタビューのせいか、性をプログラムピクチャーの中に描きながら、その向こうに自らのテーマを託していた監督達に思いを馳せておりました。瀬々監督が、ワイズ出版とつげ忠男作品との出会いから、ピンク映画の枠では表現しきれなかった性と暴力のテーマを究極までつきつめ、その果てに、戦後の日本人の意識を炙り出そうとした意思に衝撃を受けたのでした。スタッフとはいえ、日々商業映画で糊口をしのぐ身にとりまして、商業映画と、このような作品を往来する瀬々監督作品をもっと観なければと思いました。大変勉強になりました。

 

澤井信一郎(映画監督)

柄本明と足立正生。
ふたりの演技に刮目した。
自然な演技とは、演技しないことではなく、沢山演技して、尚且自然に見せることだ。
ふたりは、そうだった。

 

平山秀幸(映画監督)

柄本明と足立正生のコンビが出会う『日常』の物凄いリアリティ…
他人事だと思って見る人はひどいシッペ返しをくらうだろう。

 

末永史(漫画家)

まず心揺さぶられるのは、枯れた河原に浮かびあがる
「なりゆきな魂、」というタイトル文字。
全身に震えが走るような、寂寥感あふれる美しい画面だ。
つげ忠男ワールドの風景そのものでもある。
ベテラン俳優陣の熱演もさすがだけれど、
かれらを食ってしまう怪演をみせた足立正生さんの、強烈さ。
釣り竿を抱えた足立さんをみていると、
ちょっと
浦島太郎が登場したような、
ふしぎな浮遊感に襲われる。なぜなら、
よくみるほどに昔とさほど変わっていない足立さんに、
わたしは狐につままれた気分になるからだ。

 

中里和人(写真家)

まんがの映像化が難しいなか、原っぱ、ラストのスナック街のバラックなど、つげ忠男さんのまんがには欠かせないシーンが原作に忠実でドキッとしました。桜の下のシーンも壮絶なのに、いきなり現実が暴走し始める疾走感と即物的な描写になっていて、つげさんの叙事的世界が見事に描かれてました。そこに、佐野さん、江本さんの演技が映画の幹として貫かれていて抜群の存在感でした。また、バス事故をつげ作品とジョイントした瀬々監督の腕力にも驚きました。フィクションとノンフィクションの境を彷徨う、魂のなりゆき感が錬金術のようなレイヤーとなって迫ってくるようでした。

 

神谷一義(オフノート / 音楽プロデューサー)

『なりゆきな魂、』は瀬々敬久とつげ忠男、ふたつの魂が響き合ってなった作品である。この映画は2015年刊行されたつげ忠男作品集『成り行き』(ワイズ出版)を原作にした2016年録りおろしと瀬々敬久監督が5年前からあたためていたオリジナルフィルム『ソウル』を一本に繫ぎ交通させることによって、現代を覆う白闇の芯に棲む魑魅魍魎の正体を暴き弾劾する作品へと魔界転生した。
時空を超えたいくつかの記録がひとつに繋がり溶け合いながら「時の時」を形象すること。フイルムにたくさんの同時代の記憶やタマシイのモノガタリがプリントされていること。ホワイトアウトした銀幕上に映し出される翳像の中にもののけ達がざわめいていてること。『なりゆきな魂、』は映画=記憶装置の与件を力ずくで押し広げながら、映画がまた予見のメディアであることを一瞬たりとも忘れない。そう、いつだってスクリーンは時代の深層を映す鏡であり、異界への入口なのだ、この映画を観終わってそう思った。

 

関谷武裕(編集者・トーチweb編集長)

生と死、性と暴力の衝動が見事に描かれていたからだろう。
観賞後、性的興奮を覚えていた。

 

千浦僚(映画ライター)

世を見つめ、語る。主題を抱えることを恐れない。九十年代に監督瀬々敬久を知っていったときの感銘がよみがえる映画「なりゆきな魂、」。監督の個性と本質が色濃く出た作品だ。
そしてこの映画に集った、原作者、製作者、監督、スタッフ、役者たちは裸足で立つことの出来る者たちの群れだ。過去の仕事で多少名が知られたことにアグラをかかない、そんなゲタなどすぐ脱ぎ捨てる者たちと、もともと裸足の者たち。その意気と表現が充満する怪作・快作。必見!